杜の都のモリのチチ

PROFILE

森公美子(もり くみこ)歌手。1959年7月22日生まれ、宮城県出身。
テレビ、ミュージカル、オペラなどで幅広く活躍。食通ならではの知識とセンスを生かし、
HERSでは2011年5月号~2014年3月号まで料理ページの連載を担当。

第六回 ジジの災難

昭和39年1月のある日。初場所千秋楽で大鵬が柏戸を破り、優勝を決めた日の翌日。やはりムシャクシャしていたジジは早朝から釣りに出かけました。わざわざバスに乗って秋保温泉の近くにある自然公園まで行き、そこにある野池でひっそりとヘラブナ釣りを楽しむのが、そんなときのストレス解消法。ジジはヘラブナ専門に釣りを楽しむ「ヘラ師」でした。ヘラブナ釣りは年中楽しめますが、真冬ヘラブナもおとなしくなって、アタリが繊細になる。だからこそ「ヘラ師」にとっては、腕の見せ所。厳寒期こそヘラブナ釣りの醍醐味なのです。

自然公園前の停留所でバスを降り、野池まで20分ほど歩き、リュックサックから自分で握ったジャンボ塩むすびを取り出して、それをガブリとかじりながら池の様子を見渡す。
「よし、今日は天気がいいから奥のほうまで攻めてみよう」
野池は自然公園のいちばん端にありましたが、整備された遊歩道があるのは一部だけ。外周の3分の2は人の手が入っていない原野のまま。そのいちばん向こう側まで行ってみようというのが、この日のジジの決断。遊歩道の終点にある手すりをまたいで原野へと向かっていきます。
「いち、にぃ、いち、にぃ……。いち、にぃ、いち、にぃ……」
そんな声を出しながら道なき道をリズムよく進み、セイタカアワダチソウの群落から抜け出たと思った瞬間!
「きゃあーっ、出たぁ!」
「に、に、に……逃げろっ!!!」と、ジジを見て慌てふためく若いアベック。
脱ぎかけたズボンから中途半端にベルトがぶら下がったまま逃げる青年と、コートの下でブラウスがはだけたまま走り出すオナゴ……。そして、二人が寝そべっていた場所に残された白いブラジャー。それを手にとって、
「おい、おい。ほれ、忘れ物じゃ。ブラジャー。ブラじゃ」
と、ジジが声をかけるも既に二人には聞こえない。さて、残されたブラジャーはどうしよう? このまま置き去りにするのは公園にゴミを捨てるようなもの。しかも後で見つけた人たちのことを考えると、精神衛生上も良くない。しまった、私の指紋もついている――
そんなわけで帰りに公園事務所に忘れ物として届けることにしました。やれやれ、とんだハプニング。若いのはお盛んなこと。それにしてもまだ朝の7時だというのに、こんな時間から情事にふけるとは、なにかよほどの事情があるのかもしれんわな。そんなことを考えながら、再び歩き出すジジ。
「いち、にぃ、いち、にぃ……」
遊歩道の終点から歩くこと30分。ようやく今日のポイントに到着。うっそうとガマが茂る野池の中に足を踏み入れ、水面が落ち着くのを待ってからゆっくりと静かに釣り糸を垂らす……ああ、この瞬間がジジにとってはたまらない幸せ。でもそれは、ほんの束の間のことでした。

「見つけたぞ。貴様かーっ!」
荒々しくジャブジャブと野池に入って、ジジを取り押さえる警官。ジジにはなんのことだかわからない。まさか、さっきのアベックたちに「覗き」で通報されたか? だとしたらこちらの言い分を正々堂々と主張すればいい。
「私は幽霊なんて最初から信じてなかった。やっぱりそうだった。正しかった。貴様が幽霊の真似をしていたんだな!」と警官。
……どうやらジジの釣りのときのファッションが災いしたらしい。カーキ色の軍服に、短いツバの付いた戦闘帽を被り、足にはゲートル。「ゲートル」とは、ズボンの裾が障害物に引っかかったりしないようにするために、膝下部分にタイトに巻きつける革製の軍服アイテム。ちなみに日本語では「脚絆(きゃはん)」、英語では「レギンス」と呼びます。そう、現代の女子たちに人気のレギンスも、ルーツはこの軍服なんですよ。いずれにせよ、ジジがそんな恰好をしているものだから、ここのところ自然公園では噂が絶えなかったとか。
「あの池には、日本兵の幽霊が出る……」
「戦争が終わったことを知らない日本兵が、釣りをしている」……などなど。
今日も若いアベックから幽霊が出たとの通報を受け、しぶしぶ池にやってきた警官がジジを取り押さえる。しかも、ついていないことに警官に掴まれたはずみで、カーキ色の軍服の胸ポケットから先ほどのブラジャーの紐がポロリ。
「貴っ、貴様、下着まで盗みやがったな!」
「違う、違う。私はただのヘラ師じゃよ……」
「ヘラ師だかブラ師だか知らねえが、署まで来やがれっ!」

<つづく……>

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