杜の都のモリのチチ

PROFILE

森公美子(もり くみこ)歌手。1959年7月22日生まれ、宮城県出身。
テレビ、ミュージカル、オペラなどで幅広く活躍。食通ならではの知識とセンスを生かし、
HERSでは2011年5月号~2014年3月号まで料理ページの連載を担当。

第十四回 ハハの鶏そぼろ丼

完全に料理の面白さにハマってしまったフミコでしたが、これにはちょっとした家庭の事情が絡んでいました。
さて、ここまでは触れることが少なかったハハの話です……。
旅館という家業のなかでは、フミコのハハは女将という重要な立場。不機嫌な客の前でも太陽のような笑顔で接し、行儀の悪い客を相手に仏の心で対応していました。実際、いつの時代でも難癖をつけてくるクレーマーは存在するもの。
例えば、こんなことがありました――。

宴会場での団体客の夕食時の出来事。あるお客さんが料理に文句を言い始めました。
「ちょっと、ちょっと、わしゃあソラマメが嫌いなんじゃけど……。こんな臭いもの出されたら他の料理まで食べられなくなるやんけ」
そう言われて、すぐにソラマメの炭火焼の器を下げようとした仲居の様子を見たハハがその場に割って入る。
「お客さま、大変失礼いたしました。お客さまともあろう男前な方が、ソラマメ嫌いでしたとは気づきませんでした……。ですが、ソラマメはとても栄養価が高く、植物性たんぱく質、鉄分、そして男性機能を高めると言われる亜鉛も豊富です。ぜひお召し上がりください。いま明太子をお持ちします。明太子がソラマメの匂いを消してくださいますから」
そこまで言われて、さらに博多から特別に取り寄せた極上の明太子が出されると、さすがのクレーマーも一旦は引き下がります。しかも、食後の茶菓のときには再び女将が席までやってきてひと言。
「今宵の茶菓は、仙台名物のずんだでございますが、ソラマメの匂いが嫌いなお客さまはずんだの香りもお気に召さないかもしれません。そこでお客さまにだけ、一緒にバターをご用意いたしました。ずんだにバターを付けてお召し上がりください。今度はいい具合にバターがずんだの匂いを消してくれます。さすがに茶菓に明太子を使うわけにもいきませんので……」
「なるほど。これはうまい。豆の青臭い匂いが全然気にならないやんけ!」
他の客とはちょっと違うものを味わうことができて、まるで食通になったかのような気分。やはりクレームは大事だな、と、すっかり気持ち良くなって夕食を終えたクレーマー……。
日々、このような面倒な客に対してスマートな応対を心がける女将・ハハ。お客様は神様です。とにかく森々旅館で気持ち良く過ごしてもらうために自分は気を遣うのが仕事。それは見事なプロ意識でした。

しかし、そのせいなのか、それとも、だからこそなのか女将の肩書きから解放された時間のハハは、全くのグウタラ人間でした……。まずもって、家庭の食卓に出す料理が作れない。忙しすぎて、ハハにはエプロンを巻いて台所に立つ機会など滅多にないのですが、それでも月に一度くらい、宿の宿泊客が少ないときにはチチとフミコのために料理を作ろうとするハハ。お腹をすかしたフミコとチチは、テレビを観ながら待っていました。夜7時からはキケロ星人役で小林稔侍さんが出演していた「宇宙特撮シリーズ キャプテンウルトラ」、8時からは岡田茉莉子さん主演のNHK大河ドラマ「三姉妹」。いい話のドラマを2本も見終わって、空腹をすっかり忘れかけていたときに出来上がったのがハハの作った料理。
フミコとチチの前にドンと出されたのは鶏肉のそぼろ丼。
「お母さん、おかずは?」とフミコ。
「おかずは上にのっているそぼろよ。そぼろをおかずにしてご飯を食べるの。だったら一緒に盛ってあるほうが手っ取り早く食べられるでしょ。そのほうが食器を洗うのも楽だし」とハハ。
果たしてテレビを観ている2時間の間に、ハハはいったい台所で何をやっていたのか……。ひょっとして最初から挽き肉を使わずに、鶏肉の塊を挽くところから始めたのか、それとも白米を使わずに玄米を精米するところから始めたのか?
いえいえ、結局2時間ひたすらそぼろを煮詰めていただけなのでした。だから出来上がったそぼろも、煮汁がなくなってパサパサ。ただ、その代わり水加減の多いご飯がベチャッとしていて、乾いたそぼろをまろやかに包む。結果的には、失敗と失敗が重なって、それぞれの失敗を弱めてくれたのです。だから〈まあまあ〉の味わいでした。
チチは最初からハハの料理など全く期待していなかったので、「うん、うん、いい味してるね。そぼろ丼」とテレビの画面から目を離さずに気のない返事。美味しい料理は旅館の厨房にあったわけだし、つまり、もともと森家では、食事を作るのはハハの仕事ではなかったのです。
ソラマメやずんだの匂いの消し方は知っていても、あるいはクレーマーに対するスマートな対処法は知っていても、こと母親稼業は苦手だったハハ。チチとは性格的にも真逆な人でした。

<つづく……>