杜の都のモリのチチ

PROFILE

森公美子(もり くみこ)歌手。1959年7月22日生まれ、宮城県出身。
テレビ、ミュージカル、オペラなどで幅広く活躍。食通ならではの知識とセンスを生かし、
HERSでは2011年5月号~2014年3月号まで料理ページの連載を担当。

第九回 見逃したチチ

しかも、その泥棒、番頭時代はチチが子分のように可愛がっていた存在だっただけに、チチは動揺しました。一瞬の熱い捕物劇でカッコよく泥棒をとっちめたはずが、一気に血糖値が下がったかのような顔になり、ひと言……
「けいすけか、お前、なんてことを、ちゃんと働け。真っ直ぐ生きろ。いいから、ほら、早く逃げろ」。
泥棒は盗むはずだったものを残して、何も言わずにそそくさと旅館の外へと逃げていきました。
ほどなくして県警の宴会は終わり、ほろ酔い、泥酔、酩酊の警官たちは気持ちよく千鳥足で帰っていきました。商店街のネオンの中へ、ポツリポツリと消えていきました。

そして平常心を取り戻した旅館のなかでは、青い顔をしたチチが帳場で立ちつくしていました。この時のチチは、本当に酷く落ち込んでいたと、フミコは後に聞きました。
「俺は人を見る目がない……けいすけのことはいちばん信用していたのに……」
仲居を初めとする旅館のスタッフたちは、そんなチチの様子を見ながらも、元・番頭に対して否定的でした。
「あの、けいすけなら、やりそうなことだべ」
「社長もわかってねえべ。けいすけは麻雀好きでかなりの借金があったんだべ?」
「しかも、せっかくとっちめたのに、なして逃がしたんだべか。社長もなんか怪しくねえか?」
この事件をきっかけに、それまでは陽気な社長のチチのもとに一枚岩でまとまっていた森森旅館に不和の波……。
しかし、それを見事に丸く収めたのはジジのひと言でした。青い顔をしたチチに事の顛末を詳細に取材し、そのうえで出した結論が、
「そうか、わかった。けいすけを見逃してやったんか。お前はいちばん正しい判断をした。間違ってない」。
ジジはチチを叱るどころか、むしろ旅館経営をチチに任せて以来、初めてチチを褒めました。
重みのあるハスキーボイスのジジの、そんな声を聞き、仲居連中たちは、なんとなく納得しました。まあ、もともと旅館のお金を盗まれたわけでもないし、ということは自分たちの給料が減るわけでもないし、社長の父である大社長がそこまで言うのなら、そんな気もするし、最終的にはどっちでもいいっちゃ。うまくスタッフをまとめたジジ。

でも後日、事件の一部始終を聞いたフミコはジジにツッコミます。
「でも、悪いことをしようとしたんでしょ、番頭さんは? 警察の人がたくさんいたのにチチはそれを見逃して許したんでしょ? それっていいこと? そんなことを許したら、番頭さんはまたどこかで盗もうとするんじゃないの?」
痛いところを突かれたジジ。さすがわが孫、フミコだと思いつつも、この一件はスマートにまとめなければいけない……うーん……。
「フミコにはまだ早いが、『罪と罰』という小説があってな。主人公は人を殺してしまうのだが、自分が生きるために殺さなければならない状況があってな、しかもこの小説を読む読者は、殺人者の主人公に共感するのじゃよ。悪いことをしてるのだが、そうせざるを得ない社会の状況もあってな。むしろ主人公はヒーローなんじゃ」
「盗んでも良いってこと? それがヒーロー?」とフミコ。
「いや…でも…チチはヒーローじゃ」とジジ。
「でもパパは青い顔をして落ち込んでいたんでしょ? 落ち込んでるヒーローなんて見たことないよ! ヒーローは強い人でしょ?」
「うーむ。でもおそらく文学的にはヒーローじゃよ」
「ぶんがくぅ? なにそれ。文学は悪くても許す? そんなのダメだよ、悪いことは悪い! 文学は間違ってるよ! ジジもパパも文学が好きなの?」
ジジの首は縦にも、横にも動かなかった。
いずれにせよ、フミコは泥棒に入ったという番頭さんが許せなかった。これは後日談だが、けいすけはその後、競馬で大きな穴馬を当てて、その儲けで、海沿いに小さな民宿を建て、海の幸目当てにやってくる観光客相手にそこそこの評判だったらしい。
そして、時季になると、森々旅館には必ず差出人不明の海産物が届いていた。チチはそれに口を付けることはなかったが、フミコは……?
“文学とはいかなるものなのか解らないけど、実質的に美味しいものならいいっか!”と思った。
そして、フミコがチチとジジの文学に違和感を覚え始めた頃、逆に二人は蜜月の時代を迎えるのでした……。

<つづく……>